「あなたの痛みを、分かった気にならない」——言葉になる前の“ナマの感覚”を聴く対話論
「なんとなく息苦しい」「言葉にできないモヤモヤがある」。そんなとき、私たちはSNSやネットで「HSP」や「性別違和」といった名前を探しがちです。でも、本当に「自分の痛みに向き合う」とはどういうことなのでしょうか?知識がない人にもわかるよう、3人の対話形式で解き明かします。
僕たちTEARDROPSは「名前のない痛みを聴く」という活動をしているんだけど、今日はそもそも「名前のない痛み」って何なのか、それを「聴く」ってどういうことなのかを、AさんとBさんと一緒に話してみたいんだ。
「名前のない痛み」ですか……。すごく不思議な言葉ですね。すみません、そもそも「痛みに名前がない」ってどういうことですか? 苦しいなら「悲しい」とか「辛い」とか言えそうな気がするのですが……。
それ、すごく分かるなぁ。僕(私)も昔はそう思ってた。でも例えば、自分の性別について「男」か「女」かの枠に収まらないモヤモヤを抱えていたとき、「違和感がある」という言葉すら思いつかなくて、ただただ胃のあたりが重くなるような感覚だけがあったんだよね。
1. 痛みを「記号」ではなく「ナマの感覚」で捉える
まさにBさんが言ってくれたことだね。今の社会って、苦しさがあるとすぐ「ノンバイナリーだから」とか「HSPだから」とか「うつ症状」みたいに、「言葉のラベル(記号)」を貼って整理しようとするでしょ?
でも本当の痛みは、そんな綺麗な分類に収まらない、胸がキュッとなるとか、胃が重くなるといった生の感じ=専門用語で「クオリア(感覚質)」として身体にあるんだよ。
ク……クオリア? 急に難しい言葉が出てきました! それってわかりやすく言うとどういう意味ですか?
例えば「イチゴの味」を想像してみて。「甘酸っぱくて赤くて…」って言葉で説明できるよね? でも、実際にイチゴを口に入れた瞬間の「あの独特のジューシーな感じ」そのものは、言葉じゃ100%表現しきれないじゃない?
その**「実際に身体で体験している直接的なリアルさ」**のことをクオリア(体験質)って呼ぶんだ。養老孟司さんも「青色を見て青いと感じる直接の感覚(主観)は、言葉には変換できない」と言っている。心や身体の痛みもまったく同じなんだよ。
言葉にすると、その「生々しさ」が抜け落ちちゃうんだよね。「性別のモヤモヤ」と言っても、胸をぎゅっと絞られるような痛みなのか、背中がスースーするような孤独感なのかは、人によって全然違う。言葉は便利だけど、大雑把なんだ。
あ! なるほど! 同じ「辛い」でも、身体がどう感じているかという「ナマの体験」は一人ひとり違うってことですね。身体の感覚がないと、言葉だけ知ってても本当の意味はわからないんだ……。
完璧に理解できています! 認知科学者の今井むつみ先生も、それを**「記号接地(シンボル・グラウンディング)」**と呼んでいるんだ。言葉(記号)は、自分の身体感覚とドッキング(接地)して初めて、生き生きとした本当の意味を持つ。
僕たちが「名前のない痛みを聴く」と言っているのは、「あなたは〇〇という診断ですね」とラベルで分類するんじゃなくて、その人の身体にくっついている「生々しい苦しさの感覚(クオリア)」に一緒に向き合おうということなんだ。
2. なぜ私たちは「ラベル(名前)」を求めてしまうのか?
なるほど……。でもBさん、疑問なんですけど、自分の苦しみに「ノンバイナリー」とか名前がついたとき、「私だけじゃなかったんだ!」ってホッとしたりしませんでしたか? なんでそのラベルに頼っちゃダメなんでしょうか?
もちろん、めちゃくちゃホッとしたよ! 「ノンバイナリー」という言葉に出会えたおかげで生きやすくなった部分は確かにある。でもね、だんだん「ノンバイナリーならこう考えるべき」とか「LGBTQ+コミュニティの意見」みたいな「世間のイメージ」に縛られ始める感覚もあったんだ。
自分の生の感覚よりも「ラベルの正解」に合わせにいっちゃうというか……。
そこなんだよね。思想家の東浩紀さんは、現代を「データベース消費」の時代だと分析した。ネットやSNSでは、個人の固有の痛みが「バズるためのキーワード」や「検索用のパーツ」として扱われやすいんだ。
①「〇〇(ラベル)で生きづらい」とSNSに投稿する
②「分かる!」と共感されてバズる(痛みが記号になる)
③ しばらくすると別の新しい言葉やトピックが流行る
④ 昔の痛みは忘れられ、次の新しい流行りの言葉へ乗り換えていく
うわ……! それ、すごく分かります。SNSで同じハッシュタグの人を見て最初はスカッとするのに、時間が経つと「でも私のこの苦しさは、このハッシュタグの通りではないかも…」って寂しくなることがあります。
そう。社会学者の石原真衣さんも指摘しているけれど、ざっくりした「ラベル」で分類された瞬間、その人だけの本当の苦しみが隠れてしまって、「消費コンテンツ」になっちゃう。だからラベルの貼り合いっこだけでは、根本的には救われないんだ。
3. 勉強して「理由」がわかるほど、自分の心が麻痺する?
うーん、でも本を読んだりして「私のこの苦しさは、こういう心理メカニズムなんだ!」って理屈がわかるのって、頭が整理されて良いことじゃないですか? なんでそれが良くないんですか?
整理されるのは良いことだよ。でも、文化人類学者の中沢新一さんが言うように、本を読んで専門知識という「言葉の網」を手に入れると、頭の中で「痛みの原因図」が綺麗に描けるようになる反面、**自分の身体が感じていたモヤモヤした感覚そのものを感じ取れなくなっちゃう**危険があるんだ。
頭で「これはジェンダーギャップによるストレスだな」って分析して納得しちゃうと、本当は身体が「いま、この場所が嫌だ!」って叫んでいる生々の声を、「まあ理由が分かったからいっか」って無視しちゃう感じかな。
そう。社会学者の宮台真司さんも「知識で理解した気になっても感情は戻らない。生の体験質(クオリア)を感じ直さないとダメだ」と言っている。標本箱に昆虫を刺して「理解した」気になるようなもので、頭の分析だけだと生きた心が置き去りになっちゃうんだ。
4. 「分かった気」になるのは、相手への「暴力」である
言葉でまとめると、生の感情が死んじゃう……。じゃあ、誰かの相談に乗るときに「あぁ、それってこういうことでしょ! わかるわかる!」って共感するのも、実は良くないってことですか……? 一般的には「共感するのが良いこと」って言われてますよね?
そこが一番大事なポイント! フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスは、まさにその「分かる分かる!」を猛烈に批判したんだ。
相手の話を自分の知識の中に引き当てて「要するにこういうことでしょ」と納得することを、レヴィナスは**「同じ(自分の枠組み)への回収」**と呼んだ。相手の人生の固有さを横取りして、自分の知ってる型に勝手にハメ込む「暴力」になり得るって言うんだ。
すごくよく分かる……! 僕(私)も「あー、ノンバイナリーね! 最近流行ってるよね、要するに男でも女でもないってことでしょ?」って軽く言われたとき、すごく傷ついたんだよね。私の複雑な葛藤や身体の感覚を、一瞬で「知ってる言葉」にまとめられちゃった気がして。
レヴィナスは、本当の他者の姿を「顔(ヴィザージュ)」と表現したんだ。「私をあなたの勝手な枠組みで分かった気にならないで!」と突き渡してくる、圧倒的な「分からなさ」のこと。
「私はあなたの苦しみを、安易に完全理解することなんてできない」という圧倒的な謙虚さ(無知の知)からスタートしないと、本当の対話はできないんだよ。
5. では、私たちはどうやって「寄り添う」ことができるのか?
うわぁ……! 「分かった気になっちゃダメ」「言葉に整理してもダメ」となると、私たちは誰かが苦しんでいるとき、一体どうやって寄り添えばいいんですか? 何も言えなくなっちゃいます……。
大丈夫、やり方はふたつあるよ!
ひとつ目は、起きた出来事(事情)を分析するんじゃなくて、**「その時の心が感じていた感触(クオリア)」で響き合うこと**。
たとえば、僕(私)の「性別のモヤモヤ」と、Aさんの「職場での孤独感」は、事情や背景は全然違うよね。でも、お互いに「自分の居場所がないような、足元が崩れる感じ」っていう身体の感触(クオリア)なら、共有できるかもしれない。
そう! 事情を聞いてアドバイスするんじゃなくて、「その足元が崩れる感じ、僕も知っている気がする」って感覚で重なり合うこと。哲学者の鷲田清一先生の言う「目に見えない相手の感覚を想像する力」だね。
なるほど……! 事情を根掘り葉掘り聞いて「分析」するんじゃないんですね。ふたつ目のやり方は何ですか?
ふたつ目は、思想家の東浩紀さんが言っている「対話のやり直し(訂正)」だね。世間の言葉(既成のラベル)を相手に押し付けるんじゃなくて、**「そのモヤモヤってどんな感じ?」「うーん、身体の皮を一枚脱ぎたい感じ」「あ、それってこういう言葉が近いかな?」って、2人だけの新しい言葉をその場で作っていくこと**なんだ。
すでにある辞書から言葉を選ぶ形じゃなくて、2人で一緒に探していく共同作業だね。それなら「決めつけられた」感じがしないし、自分のナマの感覚を大切にしてもらえている気がするな。
6. まとめ 〜「一つの自分」に縛られなくていい〜
最後に、編集者の松岡正剛さんの言葉を紹介するね。僕たちはついつい「私は〇〇な人間だ」みたいに「ひとつのアイデンティティ」に縛られがちだけど、人間の中には本来**「たくさんの私」**がいるはずなんだ。
「われわれには国籍や母校とつながる自己もあるし、『さみしい自分』や『元気が出る自分』もいる。(略)アイデンティティをひとつに確立しようとするからムリが起こる。むしろいくつもの編集的自己を発揮したほうがいい。」
イシス編集学校/松岡正剛
「ノンバイナリーの私」だけに縛られる必要もなくて、本を読んで笑う私、仕事で悩む私、一人で傷つく私……色んな自分がいていいんだって思うと、すごく肩の力が抜けるよ。
そう。「名前のない痛み」を聴くというのは、相手を安易なラベルに閉じ込めず、「私はあなたを完全には理解できない」という誠実な諦めを持ち続けること。そして、お互いのナマの感覚に耳を澄ませながら、そのつど新しい言葉を一緒に探していくことなんだ。
「安易に分かった気にならない」からこそ、どこまでも丁寧に相手の声に耳を傾けられるんですね。Bさんのお話も含めて、すごく実感が湧きました! ありがとうございました!
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